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萬鉄五郎(洋画家)とは?

萬鉄五郎(ふりがな: よろずてつごろう、英語: Yorozu Tetsugorō、仏語: Yorozu Tetsugorō)は、20世紀前半に活躍した日本の洋画家で、フォーヴィスムやキュビスムといったヨーロッパの前衛的な美術運動を日本に導入した先駆者です。1885年、岩手県に生まれ、東京美術学校で学んだ後、表現主義的なスタイルを追求し、大胆な色彩と抽象的な表現を用いて独自の画風を確立しました。彼の作品は、日本画壇に新しい風を吹き込み、後のモダニズム運動に大きな影響を与えました。萬鉄五郎は、日本近代美術の革新者として、現在でも高く評価されています。

萬鉄五郎の人物伝

萬鉄五郎は1885年(明治18年)、岩手県東和町に生まれました。幼少期から絵画に興味を持ち、1905年に東京美術学校に入学して本格的に洋画を学びました。当時の日本美術は、主に西洋写実主義の影響を受けていましたが、萬はその伝統的なスタイルに飽き足らず、もっと自由で個性的な表現を求めました。

卒業後、萬はフォーヴィスムやキュビスムといったヨーロッパの前衛芸術に触れ、それらの影響を受けて自身の作品に大胆な色彩抽象的な形態を取り入れました。1912年に発表された「裸体美人」は、日本画壇に衝撃を与え、彼の画業の転機となります。作品には歪んだ形態と強烈な色彩が用いられ、従来のリアルな描写を超えた感覚的な表現が見られました。

また、萬は1914年に設立された美術団体「二科会」の創立メンバーとして活動し、日本のアヴァンギャルド美術の発展に寄与しました。彼は、個展や展覧会を通じて、日本の美術界に新しい潮流を広めようとしました。萬の作品は表現主義的な要素が強く、感情や内面の表現を重視しており、特に人間の感情や精神性を描くことに力を入れました。

その後、萬はさらに抽象化を進め、自然や風景をモチーフにした作品においても、現実の形を超えた内面的な表現を追求しました。彼の作品は一貫して自由な表現を重視しており、日本の近代洋画における新たなスタイルを確立しました。また、萬は教育者としても活躍し、後進の育成にも力を注ぎました。

萬鉄五郎は、1927年に42歳という若さで亡くなりましたが、その短い生涯の中で日本美術の近代化に大きな足跡を残しました。彼の革新的な作品と思想は、大正から昭和初期の日本画壇に強い影響を与え、現在でも日本モダニズムの先駆者として高く評価されています。

代表作

1. 「裸体美人」

1912年に発表された作品で、歪んだ形態鮮やかな色彩が特徴です。日本画壇に大きな衝撃を与え、萬鉄五郎の表現主義的な作風を象徴する一作です。

2. 「雲のある自画像」

自らを描いた自画像で、フォーヴィスムの影響を受けた大胆な色使いが印象的です。内面的な感情を強調した作風が際立っています。

3. 「道路」

1915年の作品で、都市の風景を大胆にデフォルメし、独特の構図とリズム感が特徴です。キュビスム的な要素が見られる一作です。

4. 「赤い目の自画像」

赤い目を持つ自画像で、心理的な要素色彩による強烈な表現が特徴的です。彼の内面的な葛藤が感じられる作品です。

5. 「風景」

晩年の作品で、自然の風景を抽象的に描き、自由な線と色彩で構成された作品です。自然と精神の融合を表現しています。

現在の世界的な評価

萬鉄五郎は、日本モダニズム絵画の先駆者として、国内外で高い評価を受けています。彼の前衛的な表現革新的なスタイルは、日本の洋画界に新たな可能性を示し、多くの後進に影響を与えました。彼の作品は日本国内の美術館だけでなく、海外の美術館やギャラリーにも所蔵されており、近代日本美術の重要な存在として評価されています。



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